2011年09月01日

第15期 昭和39(1964)年 入学

15期生の特色
昭和391964)年〜昭和431968)年
 文責 西光幸緒(当時副局長・15

 我々15期生が3年生当時、4年生30名、3年生37名、2年生30名、1年生32名。KGBは総勢130名近くの大所帯であった。(50th名簿より)

 入局当初よりこの局員数は大きく変わる事がなかった。それだけに学内の注目度も高く、多くの学生から人気のある部活の一つだったと自負している。 

当然ながら入局希望者は各々、自らの目的意識のもと、それぞれのパートを目指し入局してきた。振り返ってみると、どの一人を見ても不思議なくらいそのパートにふさわしかった。 在籍の途中でパート間を移動したものは皆無だったと記憶している。言いかえればそれだけ所属パート意識が高かったのと、日々の活動が進むにつれ、パートの専門性が培われていったからだろうと思う。 

局室内の居場所も縄張りではないけれどもおのずと決まっていた。3年生になってようやくあちこちのパートのメンバーと気兼ねなく話せるようになったと記憶している。 

我々が局の運営を担当するようになって、何とかパート間の交流をよりスムーズにしたいとの思いを持ったが、なにせ各パート、各自がその技量や専門性を追求する事を重視していた背景から上手くいくはずがなかったのも事実だ。 

ただ、番組制作に関してのチームワークはその強弱はあったにせよ大きなトラブルに至る事はなかったと記憶している。 

15期生は大きな転換期に在籍していたと思う。
技術部の立場で言うなら、真空管時代の最終章を迎えていた事。
そして音声から映像が加わり始めていた事。
電通の売上中、テレビ広告費が初めて新聞を4%上回ったのも昭和41年であった。
学生運動の大きなうねりの初期段階にさしかかっていたこともあり、局運営の方向性が絞り切れなかったと思う。 

周辺大学から関学は『ノンポリ』と揶揄されていたが、米原潜スヌーク号の横須賀入港反対デモに多くの学生が参加したのも昭和41年であった。 

15期はこれまでの伝統というか、やや体育会に近い局体質から脱皮し、より自由度の高い放送局に様変わりしていく橋渡し的役割を果たしたのかもしれない・・・と思う。トメ 

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第15期 「KGBの動き」が、当時報道部だった楠貴志男さんの正確な記憶と保管資料(当時のモニター用紙まで残しています)によって綴られています・・・、
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posted by kgb60th at 08:20| ◎ 第15期 | 更新情報をチェックする
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