2011年09月04日

第18期 昭和42(1967)年 入学

第18期です!          文責 亀関 開

いろんな『キーワード』をもとに当時の活動を振り返ってみます!

昭和42年 KGB新入部員歓迎ハイキング
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○『総部』:「総部」ってなんや?素朴な疑問であったが、報道・制作・技術・ドラマ・アナウンス、各部の集合体とわかり納得。総勢100人以上の大所帯。
○『社会矛盾の是正』:KGBのスローガン。学生として、日頃の放送活動を通じて何をなすべきか。寝ても覚めてもこの言葉が頭を離れなかった。学生運動真っ盛り、“学園封鎖”という異常事態の中でのキャンパス生活だった。
○『練習』:「アナウンス部」について述べます。「発音・発声・滑舌・アクセント」などアナウンス技術の全般に亘り、基礎から応用編まで細かく指導された。当時のKGBアナウンスレベルは、相当高いものであったと思う。毎年、各地の放送局へ複数がアナウンサーとして就職していたのを見ても間違いない。3年生が部長・指導者となり教える。2年生がアシストしていくやり方がシステム化されていた。狭い局室を各部で共有するため、「学生会館」や「中央芝生」・「日本庭園」で練習した。人前で“アーーー”とロングトーン発声をするのは恥ずかしかった。

○『モニター』:昼休みの定時放送。局室に集まり、放送番組内容を夫々の立場
でチェックしモニター用紙に書き込む。正直“苦痛”であった。書きたくても、その番組が何を言いたいのか理解できないものも多かった。
木崎湖での夏合宿 信州へいざ出発〜!列車内
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○『夏合宿』:初めての合宿は、信州の「木崎湖」だった。やたら楽しかった。 “放水”はされていなかったが、「黒四ダム」の見学は最高の思い出となった。 「パート対抗・ソフトボール大会」ではとんだハプニング。応援してくれて いたユミ(小原由美さん)が“アブ”だか“ブヨ”だか“ブト”だか知らないが、おみ足を刺されて大騒動。あの傷跡は消えたのだろうか?卒業された先輩方も遊びに来られ、上座に席を作り食事や入浴時には一番最初にご案内した。先輩後輩の繋がりを体感できた。しかし数年後・・・。

昭和43(1968)年度 蓼科高原でのKGB夏合宿
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 2年目の夏は「蓼科湖」。最悪だった。予算の関係か、毎日菜っ葉飯だった。“俺達ゃ鳥か?”胸の内でつぶやいていた。日毎に厳しさを増す“学内紛争”。「社会矛盾の是正」をスローガンにしたKGB。クラブ活動はどうあるべきか。“サロン化“を求めるのか。毎日毎日、”パートミーテング“と”全体ミーティング“の連続だった。夏合宿恒例の「スタンツ」なる小芝居も低調というより、技術部の出し物のエロ・グロ度が過ぎて、女子が泣き出す始末。夏合宿後、「KGB分裂」の危機が襲った。路線の違いから多くの退部者が出た。執行部総辞職でピンチを脱したが、まだ根っこはくすぶっていた。私には3年目の夏合宿の記憶がない。やったのか、退部していたのか・・・。
○『関関戦』:関西6大学野球の伝統の一戦「関関戦」の実況録音のため、同期報道部の故・田代好保と日生球場へ出かけた。球場で机と電源を借り、持参のテープレコーダーで録音し、後日編集して“関関戦ハイライト”を放送した。ネット裏で隣を見ると関西大学の放送部も来ていた。実況していたのは同期の岩根君であった。ライバル誕生! 彼はその後、岡山の山陽放送へ、私は名古屋の東海ラジオへと進んだ。
○『取材旅行』:2年の時、夏休みに報道部が行っている取材旅行に同行した。 メンバーは、3年の森田健・石井昌子、同期の田代好保・原田正文、1年の北方芳子・加地茂樹。戦後四半世紀を経た広島・長崎の被爆地を巡った。「原爆資料館」で目にした資料の数々はショックだった。長崎・日赤病院で入院している被爆者の話も聞いた。総てに胸を打たれた。対立する“原水禁”と“原水協”両陣営の世界大会。厳粛な雰囲気の中行われる広島・長崎のセレモニー。周辺で起こるデモ隊と機動隊の小競り合い。「70年安保」へ向けて世の中はうねりを起こしていた。86日の夜に行われた原爆ドーム近くの“精霊流し”。メイン会場から離れた薄暗い川岸で、川面を見ながらつぶやいたおばあちゃんの一言。“もう、そーっとしといて欲しいんじゃがのう・・・”。番組の中で紹介したがどれだけ伝えられたか・・・。
その年、11月 KGBコロッケの店前で
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○『記念祭』:なぜか、“大学祭”のことを当時はそう呼んでいた。メイン行事である体育会の“覇業交換”。中央芝生のステージサイドのミキシングスペースを作る技術部員にとっては、活動の年間ハイライトでもあろう。その気合の入り方はすごかった。局舎前のスペースには、“サテライトスタジオ”と“コロッケ屋さん”の模擬店。当時、販売した飲み物は“ロイヤル・クラウン・コーラ”。コカでもペプシでもなかった。このブランド名、覚えていますか? 1年の時、サテライトスタジオ設営メンバーに選ばれ、先輩達から作業手順を指示された。杭を打ち、鉄骨を組み、工事現場からもらってきたパネコンで床をつくり、塩ビの波板で屋根を架ける。“額縁タイプ”のスタジオが出来、局舎からミキシング卓やターンテーブルを移動させ本番に備えた。終了後、来年に備え、各部品にタグをつけて記録し、手製の設計図を書いて収納した。翌年、それが役に立ちテンポよく建ち上げられた。正面両サイドと下の部分に“アール”をつけ、曲線的・立体的な“顔”のデザインに挑戦。畳一畳分のベニヤ板を何枚も折ってしまった。ベニヤ板の中央には2o程の隙間があるのをそのとき初めて知った。曲げるとすぐ折れた。番組はDJやクイズなどがあったが、時の“中田・全学執行委員長”とKGB河田孝弥局長の対談は今までにない番組であった。
○『エピローグ』:“プロローグ”は知っていたが、“エピローグ”という言葉を初めて聞いたのは、学園紛争の膨大な取材テープを音源にした録音構成「上ヶ原神話のエピローグ」であった。厚美直太郎さん(16)の演出、報道部・技術部あげての録音取材。ナレーターは春日貴さん(17)。雑音を避けた深夜のスタジオ録音。出来上がった作品は、30分リールに収まり切らぬ大作だったが、関放連(関西学生放送連盟)の“大賞”は逃した。
○『官権導入』:“大学の自治”を標榜していた毎日。“第5別館陥落”の日が迫った寒い日。初めての“恐怖”を味わった。武装蜂起した立て篭もり学生が鉄パイプの先端を石で叩き、アスファルト道路に擦りつけ研ぎ澄ました。鉄パイプは凶器となった。これは“学生運動”ではないと思った。そのあと取材先の報道部員から、「まもなく機動隊が正門前に集結。構内突入の構え」との一報。すぐに“臨時ニュース”を放送。“機動隊導入阻止のため正門前での座り込みを!“と呼びかけた。原稿を持つ手も、発する声も、支える身体も震えていた。学生食堂で臨時ニュースを聞いた何人かが、うどんやラーメンをすするのをやめ正門へ走り出したと、後になって聞かされた。“伝えるということは、メッセージが相手に理解され、何らかのリアクションが起きれば最高!“と信じてアナウンスに取り組んでいる自分にとって最高の場面が来たと同時に、放送が人に与える影響力の“怖さ”を心底味わった一瞬だった。
○『アルバイト』:学内封鎖が長く続いた。試験は“リポート”に切り替えられ、 みなアルバイトに精を出した。当時のKGBは阪急電車の駅舎の清掃に携わる部員が多かった。私はラジオ大阪で、プロ野球中継の“スコアラー”をやっていた。野々村邦夫さん(17期)の紹介だった。実況は、KGB第7期生の永田勉・大先輩。2年間スコアラーを務め、プロ野球実況中継のノウハウを身につけてしまった。又、東宝宝塚映画のエキストラをやったのが思い出される。加山雄三主演「蝦夷館の決闘」で、三国錬太郎・倍賞美津子らが出演。我々は、“アイヌ人”や“ロシア兵”に扮して2日間、山間部のオープンセットで動き回った。走る足元には火薬が仕掛けられ、通り過ぎるすぐ横で爆発音とともに砂塵が吹き上がる危険なシーンもあり、映画制作の一面を知った。
昭和43(1968)X'mas
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交換プレゼント、何が当たったかナ???
豊中ブラウンホテルにて開催のKGBクリスマスパーティのひとこまでした。

○『就職試験』:4年生の夏、入社試験のため名古屋に赴いた。CBC中部日本放送の三久保角男先輩(14期)の寮に泊めてもらい、東海ラジオの試験に合格した。社会人一年目の夏、後輩の多田成男君(19)が私のいた東海ラジオの寮に泊りCBCに合格した。先輩に対する恩返しが出来たと思った。

○『卒後』:3年目の夏だったか、同期の野村啓司・田代好保(報道)・枡田和久(技術)や、後輩の多田成男、20期の三好俊行・林英夫らと、“KGBの夏合宿に行こう!”と休みを取って信州へ。でも、歓迎されなかった。初日の夜、“先輩、お風呂の用意が!”との声。『よし、一風呂だ!』と信じて行った浴室。すりガラスの向こうには、シャンプーと石鹸で泡だらけの1年坊主が、頭からざあざあお湯を被っていた。すぐさま局長を呼びつけお説教。“時代は変わったのだ!明朝帰ろう”と衆議一決。だが枡田だけは残るという。皆、言葉の端々に『・・・それにつけても枡田帰るでぇ!』と呼びかけても彼は応じなかった。我々は山を降り、上高地・河童橋袂の“五千尺旅館”に宿泊。ゆったりとお湯につかり豪勢な料理に舌鼓を。金も使った。社会人としての“意地”だった。卒業後、先輩・後輩の皆様方から仕事の発注をいただいた。ABC朝日放送のPDだった3年先輩の戸倉信吉さん(15)から「100歳双子の金さん・銀さんの出演交渉を頼む」とのことでコーディネイターを仰せつかった。2年先輩の今は亡き縄田賢治さん(16期)から「浜松で大きなパーティをやる。司会者を出してくれ」。1年上の河田孝弥さんから「全国の優績者表彰パーティーの企画・進行・運営を頼む」。森田健さんから「幼児教育者の大会の講演者を探してくれ」、翌年は「俳優高島政宏さんのトークショウの女性相手役を頼む」。1年後輩の萩永敏明君から「ハウジングセンターの自社モデル住宅を使って、PRビデオを制作してください」。とお声を掛けていただいた。フリーアナとなってから、2008年までの25年間に亘るテレビ和歌山の高校野球中継では、西沢大先輩(4期)と一緒に実況を担当。毎夜グラスを傾け、最後は“KGB談義”に明け暮れた。KGBという組織を通じ先輩後輩の絆が出来たのが、ことのほかうれしかった。

●『わかれ』:18期・同期生の初めての悲報は田代好保君(報道部)であった。 声帯ポリープでも患っているかと思うほどのかすれ声。いたっていい加減な感じと受け取れる日頃の態度。でも責任感は強かった。分解寸前のKGBを存続・維持してくれた執行部の局長を務めてくれたのだ。結局、彼と一緒の作品作りが一番多かった。今だったら、彼のスクリプトに、もう少し上手なナレーションをつけてあげられたのにと残念でならない。
●時が経ち201111月。テレビからドリスデイの懐かしい歌声のCMが流れている。“When I was just a little girl・・・・Whatever Will be Will be・・・・・“ 「QUE SERASERA」である。これを聞いて同期の“タミ”こと小山太美さんを思い出した。にっこり微笑むと八重歯が覗いた彼女。「それ、知っとう知っとう!」 成住さん(16)ほどではなかったが、軽い神戸訛りで弾む会話。イライラしたり、険しい表情になることなど無縁だった彼女。「・・・そんなことゆうたって、なるようにしかなれへんわ」と悠然・泰然としていた彼女。自宅での通夜のお参り。間近に見える出来たばかりの明石大橋のイルミネーションが涙に滲んでいた帰路、精進落としの席で春日さんが呻いた。「またアナウンス部か!
●木下さん(
15期)、縄田さん(16期)も亡くなった。次は俺だ。その
あとはカメ、お前だ!」応援団総部吹奏楽部の歴代司会者である。そのとき春日貴の頭は真っ白に。私の髪はバーコードへの道を辿り始めていた。

○結び:学生時代のエポックだった「KGB」の活動を、当時の『キーワード』を通して、ちょっとつぶやいてみようとしたら、えらい長いつぶやきになってしまい、やたら喉が渇いてきました。そろそろにします。 40年経ってからの記憶の遡りはこれが一杯一杯です。同時にその記憶の正確さには不安があり、不備な点も多く、どなたか修正・加筆していただければ幸いです。存続の危機を乗り越えてくださった仲間に心から感謝するとともに、途中入部・中途退部の私をはじめ、学園紛争の中KGBを去った仲間に対し、“復権”の機会を与えてくださった、当時の責任者の皆様に心から御礼申し上げます。
20118月の『KGB60周年記念パーティー』に出席できて、
その感を強くいたしました。ありがとうございました。           
  
201111月吉日 亀関 開(18期アナウンス部)記



posted by kgb60th at 10:33| ◎ 第18期 | 更新情報をチェックする
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