2011年09月03日

第25期 昭和49(1974)年 入学  

私たち第25期は約20  文責 坂口豊彦(25期)
 
 みなさんこんにちは。
前回のKGB50周年の時には、「ちょうど真ん中か」と感慨にふけったのですが、今回60周年では明らかに前半部、後輩たちの方が多くなりました。

 残念ながら、同期の一部に連絡の取れない人もいますがみんな健在で、ちょうど定年前後の世代です。そのあたりで一気に老け込む?男性陣に比べて、女性たちはとても元気に活躍中。男性だって世の同年代と比べるとみんな元気ですよ。
 
 これは青春時代をKGBで過ごした熱い心意気があるからと思いたい。これからもどうぞよろしく!

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1976年KGB新入生歓迎オリエンテーションでの25期生(須磨浦公園)
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1976年夏合宿(信州・戸隠神社)

25期:『銀座通り書籍部前からお送り致しました』

同期はピーク時で20人弱。「学園紛争時代」は、すでに「神話の時代」などとも言われていたが、学費値上やスライド制導入に反対しての学生集会が開かれ、一部の期末試験がストのためにレポート提出になったことや、正門前に機動隊が来ていたことも記憶している。

どこからでもキャンパスに立ち入ることが可能な開放的な大学が、緑の生垣の中に張られた金網で次第に包囲され、夜間の滞在が次第に制限されていく頃でもあったが、「浅川マキ」(
20101月没)徹夜コンサートが中央講堂で開催されたりもした。
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1977年 KGBクリスマスパーティ

そんな学内状況の中で、KGBは『六総部・二自治会』の主要メンバーとして「学生自治を担う立場」や「学生放送とは何か」といった局内での議論を続けながらも、一方100人を越える局員の中には「そんな難しいこと」から距離を置きたい者もおり、葛藤していた印象もある。

25期生練習番組3編
我々第25期が新人として入局して、初めて番組に演出・アクター・技術等で携わった番組です。
3
本を合わせると同期がほぼ網羅できることから選定しました。脚本は先輩方のものですがお許し願いたく思っております

『去りし日によせて』


C1976年頃番組制作風景IMG_0004.jpg

『砂漠』


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1977年 信州での夏合宿

『雪がとけたら』

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1978年 卒業記念撮影 KGB局室前

パートごとに特色もあり、アナウンス部は練習が一番厳しく、中央芝生や日本庭園での発声練習の様子は今も記憶に残る。ドラマ部は個性派揃いで、演技力と体力には脱帽した。技術部はスキルのある人たちの集団で、大学祭での活躍は彼らの存在感を強くアピールしていた。制作部は『軟弱』と言われ続けたが、その分一番結束が強く、全局内の潤滑剤として存在意義が大きかったと思う。報道部は、人数は少ないが他のパートからの移籍メンバーがいたりして、その頃のKGB全体の雰囲気からは少し離れていたのかも知れない。

 そのような中で『放送祭』前には番組制作のため多くのプロダクションが出来た。ひとつのスタジオを交替に使うために、昼夜関係なく時間が割り当てられ深夜や授業時間に関係なく番組作りをしていた。

『放送祭』は大学祭と同時であることが多く、KGBは多忙を極めた、ただそれが一番のやりがいであり、クラブ活動の大半がそれであったとも言える。大学祭はKGBなしに開催は出来ず、KGBの存在感は大学祭を仕切ること発揮された。

とにかくみんな自分の番組を作りたかった。先輩から『この番組の主張は何か』と問われ苦慮した苦い思い出も。たくさんの番組を作った人も、卒業までに何とか1本作りたかった人も。エキストラ最多出演??を果たした人も、ミキサーのスライドにBGMのフェードイン・アウトの美学を求めた人も、キューの指先にこだわった人も。


その思いは『銀座通り書籍部前』の局室から送り出された「番組」の中にパッケージされている。


 



posted by kgb60th at 14:52| ◎ 第25期 | 更新情報をチェックする
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