2011年08月27日

草創期について 田村安起(2期生)

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ここに1955(昭和30)年発行の文化総部10周年記念誌』があります。

そのなかに【寄稿】「関西学院大学 放送研究部(KGB)の歩み」田村安起(2期)   <全文掲載>
 
 現代はマスコミュニケーションの時代であるといわれている。マスコミュニケーションとは、一言で言うなら現代社会で非常に多数の人たちの間で行われる
大量の意思交換である。今日われわれの生活を支配している社会的な力は、法律・政治・経済・教育・文化いずれの面でもすべてマスコミュニケーションの力によって支えられ、動かされているのである。

このマスコミュニケーションの手段としては大きく分けて出版(新聞・雑誌・単行本)映画・演劇、そして放送が挙げられるのであるが、その中で速報性、同時性、広汎性において最も優れている放送が、わが国では誕生当初から政府の支配下におかれ、戦時中は全く軍部の手足となってしまったのである。与論をリードするジャーナリズムの中にあって、ひとり放送のみが跛行的な歩み方をしていたのである。

しかし、それも第二次大戦の終了に伴って、わが国の放送界―日本放送協会―を支配していた軍部・官僚は退陣し、全く新しい段階を来すことになった。そして昭和25年、いわゆる電波三法によって民間放送が実現することになり、わが国の放送界にさらに新しい息吹きが加わったのである。今まで、いや応なしに押し付けられてきた放送をダイヤルを廻すことによって、自由に選択できるようになったこと。さらにはアメリカシステムによる聴取者参加番組の出現などによって、放送に対する関心は爆発的に高まってきた。わが関西学院放送研究会(KGB―当時は放送研究会)はこのような時代を背景として生まれたのである。
 
 昭和
261951)年101日、丁度わが国に民間放送が、文字通り呱々の声をあげたその年に、単に放送に対する関心にとどまらず、自ら研究し理解しようとする者50数名が相集いて誕生したのであった。
 
 理想は大きかった。まず学内放送を計画した。当時、学内のニュースは月に一度か二度発行される学院新聞によって知るだけであり、学校側の告知に至っては、学生課前の紙片の提示だけで済まされることが多かった。この不便を解消しさらに講義に疲れた学生に憩いを与え、教養の一助にも学内放送を計画したのである。アメリカの大きい大学では、行きとどいた設備で中波放送を行っている。我々はまず有線の小学校並みのものをぐらいから出発して、将来はそこまで行こうというのであった。

 
 第二には、新しく生まれた民間放送への進出である。民放に毎週何本かの時間の提供を受けて学生のための番組を学生の手で作ろうとしたのである。
しかし、周囲はなかなか我々の真意を認めてはくれなかった。学院内では放送研究会といっても、新しくできたばかりの部を誰も認めてはくれなかった。放送研究会を名乗って、各事務室で映写板一つ借りることができない。集まろうとしても集会場一つ貸してくれない、予算も足りない心細い会計なのに消費組合のツケもきかない。こんな有様だから学内放送の許可も下りるはずがなかった。
一方の民放進出はどうかというと、まだ企業として民放が成り立つかどうかわからない時であり、時間を売るのが商売である民放にそんなお道楽をする余裕はないと、これはこれでビシッと断られたのである。
 
 
ラジオ熱に浮かされて入ってきた部員の中には離脱していくものも多かった。だが我々の若さは、そんなことで我々を挫折させはしなかった。我々の念願する時がいつ来ても好いように、一方では学院や民放に対する働き掛けを続けながら、他方では創立当初に作ったアナウンス・ドラマ・技術の三つの研究パートに分かれて、本来の目的である研究に没頭したのである。

その成果は如実に上がっていった。学生という一種の特権階級はありがたいもので、学院内では知る人が少ない団体であるのに、まずラジオ神戸が学生のために毎日30分ずつ時間を開放して『学園放送局』という時間を設け、放送開始第一日のその時間に出演を依頼してきたのである。昭和271952)年41日のことであった。KGB創立以来半年目であった。

これで成功を収め、続いて
625日中央講堂でこの時間の公開録音を行なった。さしもの中央講堂も超満員で、これも大成功であった。その後ラジオ神戸のこの時間の常連になり、今では20数回の出演を重ねている。
 
 昭和
261951)年暮れの文化総部の部長会議で文化総部の外郭団体として認められたKGBは、このラジオ神戸出演で、その存在を学院内外に大きく知らせることになり、その年の文化祭や記念祭の司会並びに進行を委嘱されることになった。その当時部員数は十名内外に減ってはいたが、それぞれ頑張りその後毎年の文化祭や記念祭の司会進行をつかさどることになった。それまでの記念祭や文化祭は内容は立派なのだが、その運び方が至って拙く、額縁のない油絵を見ているようで、その物足りなさをどうする事も出来ない有様だった。それが我々が額縁役をつとめるようになってから、中の絵を一層引き立たせることになり、文化祭や記念祭ともに内外に誇りうる催しになったのである。

 この功績を買われてか、昭和281953)年518日ついに文化総部の部長会で文化総部入りを認められ、放送研究部となったのである。

また、この年6月、KGBが運動して、関西各大学の放送部に働きかけ「関西学生野放送連盟」を結成し、さらに7月朝日放送から毎週15分(現在金曜日午後4:30から)連盟に時間を解放され、月に一度の割合でKGBも出演している。
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昭和29(1954)年7月 朝日放送第2スタヂオ 左から
故一阿昭夫、南健仁、田村安起、本庄光夫、山本一男2期生各氏。
  
 
番組の反響は北は北海道から南や九州まで、全く大きく、これが刺激になって、ほかの地区にもこういう連盟が生まれ各地の民放に出演することにもなったのである。つまりはKGBがこの先べんをつけたわけである。その後も研究はたゆみなく続けられ、創立当初の理想の達成に努力が尽くされた。現部員の話しによると多年の念願であった学内放送もいよいよ実現の運びになったとか、まことにご同慶の至りである。

 我々のできなかったことは現役へ、彼等にできなかったことはさらにその後輩へと、理想の実現にバトンタッチされていく。その度にKGBは発展し、理想はますます高大きくなっていくのである。昭和30年卒 当時 朝日放送アナウンサー  田村安起

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前回2001年KGB50周年パーティーでご挨拶される田村安起氏。


posted by kgb60th at 10:01| ◎ 草創期 | 更新情報をチェックする
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