KGB48期生はたった11人というたいへん少ない人数で、渉外・渉内副局長を1人が担当するという状況でした。
その分、少数精鋭、職人気質が高いメンバーでした。
先輩・後輩からも信頼が厚い局長を筆頭に、競馬実況なら任せとけ!なアナウンス、「演技は楽しく」をモットーにしたドラマ、音声・映像それぞれにマニアックなまでの知識を持った技術陣、知性派ディレクターなどそれぞれのセンスは半端ないものがありました。

998年、49期が2年生の時の全局合宿。
広島県帝釈峡での全体写真。緑の芝生が眩しいです。
大学祭のイベントは、2年生時は三田の「アウトドアイベント」、オープンDJ、番組発表会を、
3年生時はそれに加えてKGB主催「バンドコンテスト」も行いました。
21世紀を目前にした私たちの在局時期は、局内の技術機材がオープンリールからMDに変わりました。
また大学のパソコン環境の進歩で映像をパソコンで編集できるようになるなど、番組制作の技術が徐々に進化した時でもありました。
しかし、すぐに引退だったためほとんど恩恵をうけることができなかったのが少し悔やまれる世代です…。
48期詳細・・・
たった11人の48期。
今をときめくAKB48ならぬKGB48期生は、AKB48とは逆に、大変人数が少なかった。1997年、アナウンス2名、ドラマ3名、技術4名、制作1名、報道1名の全部で11名、しかも女性が1名だけという紅一点でした。
学園祭ではそれぞれが複数のイベントにかかわり、3年生時はほぼ全員がパート部長や執行部長を掛け持ち、渉外副局長、渉内副局長を一人が担当するという歴代まれに見る執行部体制だったと思います。
その分、少数精鋭、職人気質が高いメンバーでした。
● 最大のイベントは新月祭。
1998年は僕らの代がヘッドになって新月祭のイベントを行いました。
三田キャンパスでは学園祭に遊びに来たお客さんと一緒になって楽しむ「アウトドアイベント」を、上ヶ原キャンパスではプラザで音楽をオンエアしたり、学内のクラブ・サークルの人たちをゲストに迎えてイベントをアピールしたりするオープンDJを、活動の総決算である番組発表会を行いました。

1998年 三田キャンパスでのアウトドアイベントの写真。ビンゴ大会が大盛況でした。
また、メジャーデビューしたばかりのMISIAがこの年の「新月祭・後夜祭」に出演しました。
我々は総部として警備にあたりましたが、木や建物の上に登ったりする無茶な来場者を注意しなければならず、苦しかった思い出があります。
1999年、3年生時はKGB初?のバンドコンテスト行った際、現在メジャーで活躍し、当時は関西学院大学の音楽研究会に所属していた「オレンジペコー」が出てくれたこと(もちろん優勝)は大変印象に残っています。

1999年、3年生の時の全局合宿。
広島県福山市のみろくの里での全体写真。横一列で写真におさまる人数の少なさ。
毎日のオンエアと新歓、学園祭などでのイベントのほか、西宮市のコミュニティFM「さくらFM」へのオンエア番組の提供、宝塚駅前で行われていた日本テレビ「24時間テレビ」の募金活動のお手伝いなど、地域との交流が増えていきました。
● 技術過渡期の時代。僕たちが活動したのは97年から99年。時代は世紀末、来るミレニアム、夢の21世紀に向けて、新たな技術が加わっていきました。
音声編集・出力がオープンリール中心だったのが、機械の老朽化もあり次第にMDへと変わっていきました。MTRという機材の導入もあり、編集作業が格段によくなっていきました。
また、大学のパソコンが充実し始めたこともあり、映像編集技術もあがっていきました。
今やパソコンで音声・映像など簡単にできる時代、ほんの10年ほど前に流行ったMDは一体どこにいったのでしょうね。